東京新聞 平成19年1月10日朝刊「解剖図鑑」より

情熱
エレキ三味線 新たな出会い

  夕暮れに溶ける三味線の音。加藤金治さん(59)が荒川区で「三味線かとう」を始めたのは1989年。街から三味線の音が消えた後のことだ。

 父親も三味線の職人だった。15歳の時に皮張り職人の親方の下で修業。22歳の時「世間を見たい」と全国に旅に出た。70年代に起こった民謡ブームも手伝い2年間で旅を終えた。学んだのは「人と出会うことの喜び」。職人業のかたわらアマチュア演劇を始めた。昼は仕事、夜は演劇の日々は10年続いた。梅雨の湿気と夏の暑さの影響で三味線の皮は夏破れる。皮張りは「季節労働」だ。所属劇団は次第にプロ化し白分の中に「矛盾が募った」。演劇を辞めて安定した収入を求め店を始めた。

 翌年、洋楽器と三味線の融合したコンサートを聴いた。四畳半の楽器といわれる三味線。「音が小さい」ことを痛感した。「いろんな出会いを求める楽器であってほしい」。そんな思いから電気で音を増幅する「エレキ三味線」を開発。かつて音量の確保に人数を必要とした。これで独演も可能になり、スター演奏者を生んだ。昨今の津軽三味線ブームの背景にはエレキの登場がある。

 今日も加藤さんの三味線はパワフルな楽器と出会い新たな音楽を提供している。世界の楽器になった三味線。伝統の進化の形がある。

 (文と写真 佐々野慎一郎)