荒川・台東・墨田の情報誌『大江戸朝日』より

「エレキ三味線」のダイナミックさの中に若い人たちが新しい可能性を感じてくれた

 キッカケになったのは、浪曲界の旋風児ともいえる国本武春さんのコンサートを聴きに行ったことだという。国本さんは、三味線だけではなく、キーボードやギターなど、さまざまな楽器と共演する。それを聴きつつ、加藤さんは、「三味線の音が埋没してるんです。それまで三味線の音は、なるべくマイクに近づけて大きくするしかなかった。でも、それじゃ限界があると感じたんです」。

 まわりが琴や尺八なら問題ないが、ドラムやベースが入ったら、やはり埋没はヒドい。ところが、三味線の音を拾うスタンドマイクの音量を上げると、今度はバチが皮に当たる音が目立ちすぎる。

 そこから「エレキ三味線」のアイデアが生まれた。店の仲間たちと共同で試行錯誤を重ねること1年半、「エレクトリック三味線・夢絃21」は誕生したのだった。最も苦心したのが、三味線が持つ余韻をうまく出せるか、だった。一番太い一の糸の音を出した時の余韻に、二の糸、三の糸がうまくかぶっていくのが三味線の独特の情感を作る。これが出せないと、エレキにする意味がない。そこを、特殊なマイクを皮の裏面に張るなどしてクリアした結果、製品は完成に至った。

 エレキ三味線の出現は、大きな言い方をすれば、日本の音楽シーンを変えた、ともいえる。もともと、お座敷や歌舞伎などの伝統音楽の道具であった三味線が、一気により広いエリアに開放されたのだから。白然に、伝統音楽の側も変わらなくてはならなくなった。加藤さんも、「やはり一番大きな影響は、若い人たちが三味線に興味を持ってくれるようになったことでしょう。閉鎖的で敷居が高かったものが、ドラムやシンセサイザーと一緒に演奏しても違和感のないものになった。このダイナミックさの中に若い人たちは新しい可能性を感じてくれたんだと思います」。

 店で行う『ちとしゃん亭』も、時には店を飛び出し、1千人以上の収容能力のあるサンパール荒川で特別企画を行うようにもなった。また上妻宏光のような、エレキ三味線奏者の中からスター的存在も生まれるようになった。日本全国からエレキ三味線のバンドを集めてのコンテスト『東京バトル』も、1回目が大好評で、今年夏、2回目も開催された。

 「日本だけじゃないんです。オーストラリアや、ニューヨーク、パリでも、エレキ三味線をひいている人がいる」と加藤さんが語る通り、それは国境を越えての広がりも見せつつある。

 だが、その一方、加藤さんは「荒川発」にもこだわり続ける。大きなイベントをやるのはだいたい地元のサンパール荒川か、ムーブ町屋。決して、若者文化の中心地ともいえる渋谷や下北沢などに進出しようとはしない。

 「荒川区の方から場所を提供していただいて、共催事業として始めてることなので、今から外に出ようという気もありません」と加藤さんは言うが、果たしてそれだけなのだろうか?

 「いや、付け加えるなら、荒川だって渋谷には負けないぞ、という気持ちもあります。私白身、ずっと荒川で生まれ育ってきたわけですし、文化っていったら何でもかんでも渋谷や新宿が発信源じゃ、つまらないじゃないですか」

 都電荒川線の車窓から見える『三味線かとう』の店頭は、一見、古い伝統文化の趣を残しているように感じられる。だが、実は、古さと新しさをミックスさせたダイナミックな「荒川文化」を生み出していたのだ。

平成18年12月 第20号 『大江戸朝日 町のエンターテイナー第9回』より