激突、迫真の技の競演
津軽三味線チャンピオンTOKYO決戦を観戦して
●民謡芸能研究家 佐藤清山

 津軽三味線チャンピオンTOKYO決戦佐藤通弘VS木下伸市。行事役・三味線かとう。このタイトルだけでもセンセーショナルである。
 7月9日、日幕里サニーホール。この会場の入場券は発売後数日で完売となるほどの人気イベントとなった。入手できなかった人が多く、8月4日に追加公演を行うなど、最近では珍しい事例である。
 巷では、いまなぜか「三味線」に熱い視線が注がれていると報ぜられている。従来、三味線は邦楽の伴(助)奏楽器の一つとして古い歴史を経て今日に至っている。最近の若い世代では、この三味線を洋楽器と同じレベルのものとして興味を持つようになった証左であろう。特に太棹三味線の義太夫に関心が深く、やがて津軽三味線へとエスカレートする。大変喜ばしい現象ではある。民謡人口の漸減が囁かれるなかで唯一の救いの現象である。以上のような背景もあってか、このイベントは何かと話題を提起した。
 対戦者のプロフィルに触れてみよう。
 佐藤通弘(さとう・みちひろ)57年、東京都町田市出身。船乗りになるべく東海大学航海科に入学。北海道への調査航海の帰路、かねて関心の深かった津軽三味線の本場弘前を訪れ、山田千里の神髄に触れ、魂を奪われ、船を三味線に乗り換えた。津軽三味線全国大会第1回(82年)、第2回(83年)大会に挑戦、連続A級優勝をなし遂げる。85年NHKオーディション合格。
 木下伸市(きのした・しんいち)65年、和歌山県出身。82年、NHKオーディション合格。86年、87年津軽三味線全国大会A級連続優勝。現在は伊藤多喜雄のトライ・イン・タイムズのメンバーとして活躍。和歌山の木下家は芸能一家で、幼少のころから三味線に習熱、昭和57年の日本民謡大賞第5回大会では、「津軽音頭」で出場した父・木下二郎(当時62歳)の三味線奏者もつとめた。
 7月9日、満員の客席を前に、定刻の午後7時、英語によるボクシングのアナウンス調よろしく外人司会の声が漆黒の舞台から客席に向かって放たれた。すなわち“ゴング”さながらであり、凝った演出である。
 第1部が始まった。各自のテーマ曲によるオリジナルバンドの競演である。木下伸市のバンドメンバーは、キーボード・木住野住子、ベース・安田英司、パーカッション・海沼正利。演目は、@勇往邁進A羽衣B競奏曲〈無常〉Cデジャブ序曲〈回想〉C天を仰いで。
 佐藤通弘のバンドは、尺八・田辺頌山、太鼓・木津かおり、ベース・沢田穣治、パーカッション・芳垣安洋。演目は、@弘前城桜吹雪Aねぷた〜ねぶたBタ陽の津軽三味線C三味線ポルカGジョンから元気。
 以上、第l部はともにオリジナルバンドによる決戦の序章ともいうべきムードづくりだが、緒戦の息遣いが会場に伝わってくる気配がした。オリジナルバンド競演による技と曲想、曲調に合わせての照明の変化、ミラーボールの回転など、ムードづくりへの腐心の跡が髄所に見られた。木下バンドは初舞台ながらフレッシュな20代の演奏を聴かせ、まさに“丁々発止”である。客席は舞台に浮かぶ群像を凝視し声もない。次々と展開される従来の津軽三味線の奏手法とは異なる迫真の熱演、展開に息も忘れるほど緊張したのではないだろうか…。
 第2部はハイライトともいうべき「対決…決戦」の場面である。
 先行の木下伸市の曲弾き(「津軽おはら節」「津軽あいや節」)に、佐藤通弘が「津軽音頭」「津軽三下がり」で応酬する。ともに持てる実力のすべてを凝集し、これをスパークさせる連続技とアイデアを駆便しての進行である。対戦者同士の脳には、現代科学を超越したミクロの記憶素子が今日までの習錬習熟によって組み込まれており、それが“即興”というプログラムによって次々と展開されていくのであろう。分いや秒のスピードであろうか。やがて「津軽じょんから節」による2人のユニゾン演奏が始まる。そして木下の“即興”が始まる。それを耳を傾け聴く佐藤の顔に、対決という時と場の緊張感が沁み出てくる。定められたタイムを消化する2人、しかも自己のアイデアによって構成された“即興”が予定通り表現されているか、気の抜けない時が容敏なく進む。木下の低音から高音への移行がダイナミックに駆け巡る。それに呼応するかのように、体を左右に三味線を前後に振り、リズムをつける佐藤の奏法が烈しく展開する。木下は腕、手、指はともに烈しく動くが体は動かない。対照的な奏法のスタイルが印象的であった。
 そしていよいよ最終ラウンドは、佐藤、木下の同時即興である。
 間髪のロスも致命的になりかねない、いわばこの決戦の天王山である。極限の中で迫真の技芸を展開して競う場である。ともに持てるすべてを放出して対決が終わった。少し間があって会場からの称賛は大きな拍手となっていつまでも続いた。観客は快い疲労感を覚えたかのように称賛していた。また次のイベントヘの期待かもしれない。対戦者の2人は異口同音に「真剣に一つひとつベストをつくして頑張った。今日の日を目指してして体調を整えてきた甲斐があった。よい意味のライバルを求めて、今後も機会があったらやってみたい……」等々を語ってくれた。
 寸評を人れさせていただくなら、佐藤通弘は山田流を基本にした秦法で、個性的であり、曲によっては唸らせる場面も多い。木下伸市は、彼の経歴が物語るように、幼少から三味線とともに成長した。強じんさ、ダイナミックさと、あらゆる技法を巧みに取り入れているところ、特に白川軍八郎流を、自らの奏法に組み入れ自分のものにしていることは評価されよう。
 また、夢絃21を開発し、絃音を生のままストレートに聴くことを可能にした三味線かとうの技術陣の貢献も大きい。それがこのイベントを一層効果的にしたといっても過言ではないということを最後につけ加えておきたい。

『みんよう文化』1993年10月号より

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