●聞き手 三隅治雄

 7月9日、東京・日暮里サニーホールで、「津軽三味線チャンピオン・TOKYO決戦」ど銘打った公演が催される。ともに津軽三味線合国全国大会A級2年連続チャンピオンの佐藤通弘、木下伸市さんが、持てる実力のすべてをぶつけ合うほか、今話題を呼んでいるエレトリック三味線「夢絃21」の競弾を行うなど早くも評判を呼んでいる。邦楽というジャンルを超越して、さまざまな活動を続ける二人の熱い思いを、同公演の仕掛け人で「夢絃21」の開発者でもある加藤金治さんをまじえて語っていただいた。(編集室)


生まれ育ち、年代は異なっても津軽三味線にかける情熱は同じ
三隅

 最近の民謡界は沈滞ぎみで、才能のある人はたくさんいても、スーパースターになるエネルギーがないし、ハングリー精神もないと言われます。それだけにいままでのムードを突き抜けていく人が侍望されていたわけですが、今度、佐藤さんと木下さんは『津軽三味線チャンピオンTOKY0決戦』というこで、七月にイベントをなさる。ちらしでは“宿命のライバル”となっていますね。

佐藤

 年代的に差はありますが、最初から木下さんには強烈な印象があったので、私はライバルだと思っるんですけど……。

三隅

 お二人の経歴から伺いたいと思いますが、佐藤さんはやはり子供の時から音楽が大好きでしたか。

佐藤

 はい。小さい時から洋楽やピアノに興味がありました。それに、母が日本舞踊の師匠をしていたので、義太夫や端唄なども見たり聴いたして、いろいろなものが好きでした。小学校五年くらいの時に、ラジオの深夜放送で木田林松栄さんの津軽三味線を聴いて、からだ全体が熱くなり、その晩は眠れなかったんです。それからは津軽三味線に興味がどんどん湧いてきて、レコードなどを集めだしたりして…、クラシックも好きでしたが、からだに入ってくる度合が違うという感じでした。

三隅  木下さんの場合は?
木下

 両親がもともと芸人で、父は座長として一座を組み、唄あり、漫才あり、手品ありといった具合で興行をして回っていました。父は明治生まれですが、私は年を取ってからの子供なので、巡業をしていたころの父のことは知らないんです。上の名は分かりませんが、“○○とんび”という芸名でした(笑い)。私が物心ついたころには三味線と民謡の先生をやっていましたが、父は詩吟も新内も何でもやった人です。

三隅  本当の芸人だったんでしょう。
木下

 四年ほど前に七十九歳で亡くなりましたが、亡くなる直前まで芸事をやってました。余談ですが、我妻桃也さんや川崎瀧雄さんたちと一緒に、昭和初期のNHKのノド自慢に出たことがあると言ってました。私は民謡歌手を目指すつもりでしたが、あまり唄はうまくなかったんです。私が十歳の時、父が津軽三味線を習い始めて、習ってきたものを私に教えてくれました。私はすぐに夢中になっちゃって、朝起きてから小学校に行くまで練習し、学校から帰ると、ご飯を食べる時とお風呂に入る時以外はずっと弾いてたんですよ。三百六十五日ずっと。友達が誘いにきても断ったり、遊びに行ってもすぐに帰って弾きたくなったり…、今の子供たちがファミコンに夢中になったりするのと同じようなものだったんでしょう。学校でも休み時間は三味線のことで頭がいっぱいでした。中学でもクラブ活動〈陸上部)にはほとんど参加せずに、それこそ家に走って帰って三味線を弾いていましたね。

三隅

 根っからの“三味線に人間”なんですね。佐藤さんは洋楽から入って、ラジオで聴いた津軽三味線に魅せられてからはどうしていました?

佐藤

 母が三味線をやってましたから、母の先生や近所の先生に津軽三味線を習いました。でも、やっているうちに周囲のお弟子さんたちとの摩擦があったりして破門されて(笑い)、その後は独学のような形で続けていました。何かこの世界は、若者が一生を賭けるものに思えなくなって三味線は楽しいけれど、これで食べていくことに疑問を持つようになったんです。それで三味線はあくまでも趣味としてやり、船乗りにでもなろうかと、関係の学校へ行きました。大学三年の時、乗船実習で青森へ行き、その帰りに山田千里さんの所へ寄って三味線を聴いたんですが、すごく感動して「これが本当の音楽だ。男が一生を賭けて悔いのないものだ」と感じました。本当の三味線弾きになりたいと思ったのはその時ですね。それで卒業してから山田先生の内弟子に入りました。

三隅

 たしかに師弟関係のわずらわしさやこの社会独特のしがらみみたいなものからヤル気をなくす入もいるでしょうねえ。

佐藤

 若い人があまり出てこないと言われますが、その気持ちが私にはすごく分かります。

内面からき出るものを即興的に創作できることが津軽三味線の魅力
三隅  木下さんは三味線が職業だという意識があったんですか?
木下

 そうじゃなく、ただ好きでうまくなりたかった。というのも、地元の和歌山でプロ活動をしている人はいなかったし、仕事にもならなかった。ちょうど民謡ブームのはしりでしたから、いつもテレピに出ている人がプロだと思ってましたし、どうすれぱテレピに出られるのかも分からず、半分あきらめていました。ある時、父が七十歳を過ぎてから、「日本民謡大賞」和歌山県代表になったんです。それで父と一緒に上京した時、工藤君江さんの『りんご茶屋』へ連れて行ってもらいました。若い人たちが七、八人いましたが、同年代の人たちが一生懸命やっている姿を見て“これしかない”と思い、父に「民謡酒場で働きたい」と頼みました。これがもしかしたらプロへの橋渡しになるかもしれない、ここで勉強すれぱチヤンスがあるんじやないかと思ったんです。父には高校を卒業してからと言われ、とりあえず田舎へ帰って、卒業式の翌日に上京してきました。父に店の前まで連れてきてもらったら、店の名が『あいや』に変わっていてちよっと動揺しましたが、津軽民謡の『あいや節』からとった名で、艮謡酒場に変わりはないと、経営者の山田百合子さんにお願いして二年くらい修業させてもらいました。

三隅

 そのころは民謡酒場もあまりふるわなくなってきたころですね。やはりお客の伴奏や、リクエストに応えるということで、レパートリーが大変だったでしょう。

木下

 もともと民謡をやっていて、ある程度の曲は弾けたし、唄も知っていたのであまり苦労はなかったです。『あいや』をやめたころに伊藤多喜雄さんと知り合って、ふだんは普通の民謡の着物で普通の仕事もしてましたが、多喜雄さんのバンドに加わったので、幅広く活動させていただきました。

佐藤

 私の場合、山田先生の内弟子は一年三ヵ月くらいでしたが、その前に、大学を卒業するまでということで二年くらい、月に一度ずつ青森へ出かけて、先生の店に一週問くらい泊めてもらって勉強してました。内弟子生活を終えて青森から帰った翌年から自主公演をやるようになりました。民謡の世界ではお弟子さんなどを集めて会を催すことがよくありますが、私は、面白くないと思ったら途中で帰ってしまうようなお客さんを相手にしないと、自分の持っているものを磨いていけない、本当のハングリー精神を持った強い人間にはなれないと思い、知人にも知らせず、ちらしを作って置いてもらったり、情報誌に掲載したりしてスタートしました。

三隅

 津軽三味線の魅力は、単に習ったものを演奏するというよりも、自分の感じたものを即興的に創っていけること、その中で自分を燃焼させていくところにあるんじやないかと思いますね。

佐藤

 私の場合、山田師匠の三味線を初めて聴いて感動したのはテクニックじやなかった。例えぱ同じ音を繰り返していても、師匠の持っている内面的なもの、精神みたいなものをすごく感じたんです。ですから、私がいつも目指していることは、土台となるテクニックはもちろんですが、それ以上に、日ごろいろいろな物を見て感動する心みたいなものを養って、それを他の人に伝えるというか…、そんなところが津軽三味線の良さじやないかと思うんです。

三味線音楽の可能性は無限
自らの感性を前面に出すことが大事
三隅

 佐藤さんは津軽三味線全国大会の第一回、第二回と連続優勝を成し遂げられましたが、一回目の八十二年の時、木下さんはNHKの邦楽オーディションに合格されたんですね。おいくつの時ですか。

木下  十七歳です。
三隅  佐藤さんが八十二年にチャンピオンになった時何歳でしたか。
佐藤  二十六歳です。
三隅

 第五回と第六回のチャンピオンが木下さんになるわけですが、お二人の初めての出会いは?

佐藤

 レコード会社で優勝者を集めてレコードを作った時、初めて話をしましたが、それまでは会っても話したことはなかったですね。

木下

 それ以降も何度かお会いしたことはあったけど2人で競演というのは、ありそうでなかった。

三隅

 そこで『TOKYO決戦』のことについてうかがいますが、加藤さんはなぜ二人をライバルとして合わせようと考えられたんですか。

加藤

 うちで「夢絃21」という楽器を作ったんですが、これは今までの三味線の可能性を広げたものと自負してるんです。いろいろな方が演奏して下さってますが、私は人のやったことのないもの、聴いたことのないものに出合いたいと常に考えているんです。佐藤さんと木下さんは津軽三味線と洋楽器のセッションなど、いろいろ新しいものに挑戦しておられることもあり、邦楽界の中でちょっととんがった存在だと思いました。この企画をお話ししたらお二人とも「面白いじやないか」とおっしやって下さって実現することに。チャンピオン同士ですし、未来形の意味も含めて“宿命のライバル”というキヤッチフレーズにしました。

三隅

 明日の日本を代表する演奏者になるであろうという期待感を含めてのことなんですね。ところで、津軽三味線の限界とか、可能性を感じられたことはありますか。

木下

 やはり楽器の限界はあると思いますが、それでも今いろいろ使われている奏法以外にもっと三味線でやれることはいっぱいあると思う。昔の人たちは何もないところから、これまでの三味線音楽を創ってきたのに、今はストップしてるような気がするんです「ああしてはいけない。こうしたら三味線ではない」と、可能性を抑えつけられている部分がある。私は着物を着た時は、今まで通りの正調の三味線を弾き、いったん着物を脱いだら自分の感性に任せていろいろなことをやっていこうと、区別をしています。

佐藤

 私は渡辺香津美さんたちとセッションをやっていくうちに、自分はあくまでも三味線弾きなのだから自分を中心にしたセッションをしなけれぱならないと思ったんです。そしたら初めて他のジヤンルの楽器とセッションしても、お互いに対等の立場でできるというのを発見できました。でもそれはあくまでも前衛で皆さんに受け入れ難いので、今度は受け入れられるためにどうしたらいいか考えて、津軽三味線の持っているノリとか音階、リズムを使った自分中心の音楽を創れぱいいと気づいたんです。今まで三味線の限界と思ってたことが、逆に自分の強みだという気が今はしています。

三隅

 このお二人のようないい“素材”を若い人たちにアピールするためにも、プロデユーサーとして加藤さんの今回の企画は意味がありますね。このイベントは東京だけじやなく、あちこちでやってほしいですね。

佐藤
木下
 いいですね。
三隅

 「津軽三味線の会」じやなく“T0KYO決戦”というタイトルにしたのはいいですね。「民謡」「三味線」という言葉は若い人に敬遠されがちですからね。

佐藤

 拒否反応はあると思いますね。全然違うイメージのものだというのを何か作っていかなければ。

木下

 今の時代に合ったアピールの仕方を考えていかなければ。民謡を知らない人、偏見を持っている人にどうしたら聴いてもらえるか、中には着物に拒否反応を示す人もいるので、洋服で洋楽器と一緒にやるのも一つの手段だと思います。そんな人たちが、親や友達に誘われてたまたま来て、その何人かが三味線をやりたいという話を聴いた時は、やっていてよかったと思いました。

三隅

 「TOKYO決戦」で三味線の魅力を若者に分からせてほしいですね。成功を祈っています。

『みんよう文化』1993年7月号より

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