日本音響家協会発行 SOUND A&T 2010年10月号



私と三味線かとうの仕事
 
                                                                             加藤金治


修業時代

  
 もう遥か48年前、私は1962年(昭和37年)3月末、父が三味線の棹を作る職人だったことから、中学校を卒業してすぐ根岸の三味線皮張り専門職人の藤田清氏に弟子入りしました。

 住み込んでまもなく、5月3日の深夜、救急車のサイレンがけたたましく鳴る音で目が覚めました。後で聞くと近くの常磐線の三河島駅で脱線事故があり、藤田家から100メートルも離れていない下谷病院へ多くの負傷者が運び込まれたそうです。死者160名、負傷者296名が出た大惨事でした。この時のことは親元を離れてすぐの大事件だっただけに非常に不安に感じたのをはっきり覚えています。

 3年の住み込み修業の間に何とか少しづつ易しい皮張りは出来るようになりました。その頃からか忘れましたが、「学校へ行きたい」と思うようになりました。そして師匠にお願いして4年目からは生家の町屋から自転車で根岸へ通勤し、勤務後近くの定時制高校に通いました。それから高校を卒業するまでの合わせて7年間は私にとって仕事を覚える最も大切な時期であり、読書家だった藤田家の皆さんのおかげでたくさんの本を読んだ時期でもありました。

 しかし定時制高校を卒業するしばらく前から考え込むことが多くなり、「このまま三味線の皮張りの仕事を続けてよいものか」と自分の進路を迷い始めました。それはちょっとした遅い反抗期だったのかもしれません。 

      
        藤田清師                    父 加藤与作               加藤金治





 1969年3月末、私は高校を卒業しました。そして間もなく22歳の誕生日を迎えるとすぐにその後2年間にわたる旅に出ました。目的は『旅をすること』。

 先ず太平洋側の東海、近畿、四国をゆっくり南下しました。当時は沖縄返還直前だったので南は与論島まで、この時期が一番暑い時。そして徐々に北上して10月は山陰、北陸、東北、そして北海道に入ったのが12月上旬でした。札幌、夕張、手稲などで冬を過ごし5月に入って北上、最北端の利尻島の利尻岳に登りました。その山頂の真下下の肩の小屋に泊まろうとしましたが、まだ小屋は雪に埋もれていて中には入れないのでいつものように簡易テントで寝ようとしました。ところが『冬眠』後の暫くぶりの山行だったため寝ぼけていたのでしょう、ガソリンを燃料にした携帯コンロのホエーブスに不注意でろうそくの火を引火させてしまい、顔と左手に大やけどをしてしまいました。下山の途中、幸い豊富な残雪を必死になって顔と左手に絶えず当てて冷やしていたことが、その後の回復に良かったのでしょう。登りに5時間かかったところを1時間半で転げるように駆け下りて里の病院に駆け込みました。利尻町の病院で1週間の治療後、顔と左手をぐるりと包帯で巻いて故郷の町屋に戻りました。全く惨憺たる帰還でした。一旦挫折した旅でしたが東京で2ヶ月間治療の後、初めの計画にはなかった京都での半年の滞在となり、そこで演劇と出会いました。


 旅の始めからちょうど2年後の1971年2月に帰京しました。その頃、帰ってみればこはいかに、三味線界は民謡の大ブーム。皮張りの仕事はいくらでもありました。藤田清師匠から仕事を頂きながら一方演劇に目覚めます。その後、皮張りの仕事を続けながら約15年間を演劇に没頭しました。忙しい仕事の傍らでしたが、それ以上に芝居に熱中した毎日でした。

 そして今から22年前、長年傾注した演劇とスッパリ縁を切って1989年3月に『三味線かとう』を開業したわけです。 今思うと中学を卒業してから開業するまでの時間が全て修業時代であり、旅の延長だったと思います。実にいろんなことがありました。仕事を覚えて行くプロセスでの余りにもたくさんの失敗・・・。奄美大島に滞在中、大衆食堂に住込みで働いていたのですが、14インチの白黒テレビに丸い地球が同時中継で映し出され、アポロ11号が月に軟着陸する瞬間を興奮してドッキン、ドッキンする心臓を手で押さえました。今の、今の私が存在する丸い地球が四角いちっぽけなテレビ画面に収まっているなんて・・・同時中継ですよ、何より衝撃的なことでした。いろんな出来事・・・死にかけたこと、かけがえのない友人に出会ったこと、ただ怠惰に過ごした日々のこと、沢山の恋をしたことなどなど、全てゆりかごのような”旅”の中にあったことです。でもこの旅で得たことが本業に集中していくこの後の全てのことに役に立っていくとは・・・。


三味線かとう開業


 1970年頃から始まった民謡の大ブームは10年以上続きました。私が開業した1989年にはそのブームは跡形もなく、仕事がない、後継ぎがいないとかで三味線店は廃業するところが多くありました。およそ開業するのには向いていない状況でした。でも自分の『皮張りのウデ』を生かしてやっていくしかありません。小売店としての顧客はほぼゼロでした。

 他の三味線屋さんがやったことのないような方法はないものかと考えて行った事が、その後、店頭で20年間続けた『ちとしゃん亭』という三味線の無料ライブであり、『エレクトリック三味線夢絃21』の開発であり、毎年のように催した若くて力のある三味線プレーヤーたちによる三味線かとう主催プロデュースライブでした。それには必ず『エレクトリック三味線夢絃21』を使用しました。そしてこの20年間で全国の本当にたくさんの三味線愛好家が愛用して普及いたしました。現在ではヨーロッパ、東南アジア、オーストラリア、北米、南米など世界中にも広まっています。

           
               ちとしゃん亭                        夢絃21 


エレクトリック三味線[夢絃21]の誕生


 1989年の開業当初よりエレクトリック三味線を作ろうと思っていました。そのキッカケは3月に開業したその3ヶ月後、運命的にも浪曲師の国本武春氏と出会ったことです。彼は浪曲師なのですが、もう一つの顔はサングラスをかけた異色の三味線ロッカーだったのです。ドラムにギター、キーボードを従えて誰もマネのできない独自の三味線をかき鳴らし、温かみのある野太い声でブルースをポップスを、そしてロックを唸るのです。そのパワーと音楽的ギャグに私の心は一瞬にして火が点きました。というのは、荒唐無稽、無類の三味線を弾く彼の惹きつける力の強さに酔いしれながら、一方で「惜しいなあ」と思ったのでした。

 それはバックの洋楽器の音に負けて折角の素晴らしい三味線の音が弱いと感じたのです。三味線は『サワリ』という共鳴を生み出す独特の効果により非常に柔らかく繊細な音を奏でることが特徴の楽器なのです。その肝心な『サワリ』の音が弱いのでした。スタンドマイクで三味線の音量を上げるのですが、バックの音に負けまいと撥を強く叩けばたたくほど撥が皮に当たる瞬間の「バチッ!」という音だけが増幅されて強くなり、逆にその後の肝心な三味線独特の柔らかく伸びる音はかき消されてしまうのでした。和楽器同士の組み合わせによる合奏は過去何百年と行われてきましたが、当時はまだ大音量の洋楽器と和楽器の三味線がうまく融合する状況ではなかったのです。

 その後すぐに国本武春氏の協力も得て三味線かとうスタッフ一丸となりエレクトリック三味線の製作に取り掛かりました。そして様々な試行錯誤と試奏の後、約一年以上経た1990年7月27日、日暮里サニーホールに於いて[国本武春バンドライブ]を行い、三味線の有史以来、初のマイク内蔵式、ライン出力による試作品の初披露となりました。その時のことは新聞、テレビなどのメディアに繰り返し取り上げられて話題を呼びました。

 そしてその年の11月、三味線かとうはエレクトリック三味線の製品化に成功し、販売を開始しました。三味線の甘くやわらかい音に来るべく21世紀への思いを込めてネーミングを『夢絃21』と名付けました。


20周年記念ライブ

 開業から20年後、2008年8月25日より31日まで、『〜ちとしゃん亭特別企画20周年記念七夜連続三味線ライブ 〜Challengers』と題して東京・ムーブ町屋ホールにて、三味線かとう主催によるコンサートを行いました。

 初日が[本條秀太カ With J-TRAD ATAVUS]、2日目は[〜三味線RockNight〜マホロバガクザ×ヒビキメロヲ]、3日目がピアノとベースを交えた[上妻宏光スペシャル]、そして中日に[国本武春ソロライブ]。後半に入り5日目は[〜津軽三味線女性チャンピオンTOKYO決戦〜はなわちえ×松橋礼香]、6日目は[〜東京バトルU RETURNS〜浅野祥×柴田雅人×新田昌弘×小山豊]。 楽日は昼が[木乃下真市ソロライブ]、夜は[木乃下真市Project2008]と題し、元BOOWYのドラマー高橋まこと、パーカッションの海沼正利をゲストに迎えました。その爆発的なステージは満員の観客を圧倒し、それに触発された観客のノリが一体となって、ホール内は飽和状態になり完全に燃焼しました。

 この記念の1週間連続ライブに出演した殆んどの三味線プレーヤーが『エレクトリック三味線 新夢絃21』を使用していたのです。

       
        本條秀太カ With J-TRAD ATAVUS           木乃下真市 Project 2008


『新夢絃21』の誕生


 『夢絃21』は誕生の頃と現在の改良版とは雲泥にその中身が変わりました。始めのうちは先ず洋楽器に負けない大きな音を出せることが中心でした。それからも、マイクの改良、エレクトリック基盤の定数の是正、ノイズ処理の更なる飛躍など、いかに三味線の音を三味線らしくするにはどうしたら良いか、その為の試行錯誤でありテストの連続でした。その後、プロのプレーヤーが『夢絃21』を使用する頻度は着実に多くなりましたが、またその度に求められるクオリティの高さにどう応えられるかが最大の課題でした。

 そんな頃、上妻宏光氏からの提案もあり、新しいマイクの組み合わせによる音作りにも取り組みました。それは、従来のピエゾ式ピックアップマイクの他にもう一つコンデンサーマイクを胴の中から外側に取り付けることでした。撥を振り上げたあと、振り下ろした撥が糸を打ち皮に触れるまでの空間全体の空気感を表現するものです。絹糸の繊細な音の伸びを更に柔らかく、ある意味では普通の三味線の生音よりも繊細な音を抽出するもので、それをエレクトリック的に再現することは並大抵のことではありませんでした。目に見えない努力の連続であり・・・その結果、遂にその条件を完璧に満たした『新夢絃21』が誕生したのです。

 この三味線の誕生は、エレトリック三味線『夢絃21』の技術者であり、まるで海の大きな獲物を追い詰めるような迫力で取りかかった山口真明によって生みだされたものです。彼の、決して諦めることなく新しいものに粘り強く挑戦する”心”は正に鬼気迫るものでありました。

 三味線かとうでは、ほかにも夜間の練習に最適な『サイレント三味線』、手の力が弱くなった人のための『すべらない糸巻』など、時代の二ーズに合ったヒット商品を開発しております。

                 
                    山口真明                新夢絃21


三味線のPAとして心掛けること

 とかく洋楽の音響家の方々の多くは、三味線の音を作る際に、PA席から舞台を見ていて三味線の撥の最初のアタック音に照準を合わせることが多いようです。従ってコンサート会場でいわゆる『ハイがきつめ』の音作りをよく耳にします。三味線は先にも触れましたように『サワリ』が生命の楽器です。私どもは鋭いアタック音の瞬間後の余韻を、他の楽器との相乗効果の中でどれだけ柔らかく甘い膨らみのある音を出せるか、それが勝負だと常々心がけております。


新しい挑戦

 三味線かとうは2009年6月6日、2階の小スペースに観客数80人の三味線ライブハウス[Chito-Shan]を誕生させました。400年以上前、中国大陸から初めて渡来した三味線が現在のように進化した世界的楽器、『Shamisen』の中心基地として新たなる荒野を目指し、世界と交信してゆくつもりです。

                    
                       三味線ライブハウス Chito−Shan

各メディアによる夢絃21の紹介記事